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世界一有名な牡牛座の男、ランボルギーニの創業者・フェルッチオとは? 創業から晩年までを振り返る

ミウラやカウンタックなどスーパーカーの代名詞を生み出してきた、イタリアのスーパー・スポーツカーメーカー「ランボルギーニ」の歴史がどのようにしてはじまったかご存知ですか? 本記事では、創業者のフェルッチオ・ランボルギーニの歩みを中心に振り返ります。

フェルッチオ・ランボルギーニ(出典元:WIKIMEDIA COMMONS

戦争からの帰還。実業家としての才覚を発揮

フェルッチオは、1916年にイタリアのレナッツォという小さい町で、農家の長男として生まれました。フェルッチオは幼い頃から機械が好きで、実家の工房で工具や機械を一日中触って過ごしていたそうです。ボローニャ近郊にある整備工場で働き始めたフェルッチオはめきめきと腕を上げ、第二次世界大戦が始まる頃には経験豊富で優秀なメカニックに成長していました。

1939年にイタリア空軍によって徴兵され、トラクターやディーゼルトラックなど軍車両の整備士としてギリシャのロドス島へ派遣されます。第二次世界大戦後の1946年、当時33歳でイタリアへ帰還し、経済復興支援策の一環として交付されていた助成金を利用して、チェント市に自動車の修理や製造をする整備工場を開きました。戦争で荒れ果てた農地を見て、フェルッチオはあるアイデアを思い付きます。「一般市民でも手が届く農業用トラクターを製造したらどうだろうか?」

そこでフェルッチオはイギリス軍が使っていたモーリス社(かつて存在していたイギリスの自動車メーカー)の軍放出品だったトラックを安価で手に入れ、改造して民衆向けに販売を開始します。これが、実業家として第一歩となりました。

そしてフェルッチオは、最初のトラクター「カリオカ」を製造します。カリオカはモーリス社のエンジンに加えて自ら発明した燃料気化装置を追加搭載してより安価なディーゼル燃料での稼働を可能にし、すぐに11台が売れました。このカリオカの成功をうけて、1948年にランボルギーニ・トラットーリ社を設立し、トラクターの製造を本格的に開始します。

トラクター「カリオカ」(出典元:WIKIMEDIA COMMONS 撮影: Thomas Vogt

その後は、経済が安定してきたら人々は次に「住まい」を重要視するだろうと考え、1959年にランボルギーニ・ブルッチャトーリ社を設立してボイラーやエアコンなどの空調機製造事業にも参入。1960年代に入ると、イタリアは「奇跡の経済」と呼ばれる高度成長期へ。時代も後押しし、フェルッチオは二つの事業で成功を収めたのです。

宣伝文句は「フェラーリに対抗」

富を得たフェルッチオはスーパーカーをコレクションし始めましたが、どのクルマも車内が暑すぎたり、乗り心地が良くなかったり、速さが足りなかったりとフェルッチオを満足させるものではありませんでした。それは、高級車の代名詞であるフェラーリも同様でした。フェルッチオはフェラーリのモデル「250」を数台所有しており、そのうちの「250GT」はクラッチの故障が続きました。品質に疑問を抱いたフェルッチオは、創設者のエンツォ・フェラーリに直接抗議しに行くも軽くあしらわれてしまいます。そのことに腹を立てたフェルッチオは、「フェラーリに対抗するスポーツカーを作る」と宣言し、自動車製造ビジネスに乗り出したという有名な話が残されています。

フェルッチオ・ランボルギーニ博物館で展示されているフェルッチオが所有していたフェラーリ。モデルは「
250GTE」(出典元:WEKIMEDIA COMMONS 撮影:TKOIII

しかし、実はこの話はフェルッチオが自社の宣伝のために捏造した作り話です。実際のところは、品質向上のための改善案を書いた手紙をエンツォに送ったところ丁重な断りの返事が届いたそう。ランボルギーニ社の技師であるパオロ・スタンツァーニが、2人は後年に公の場で顔を合わせるまで会ったことはなかったとも明かしています。

「フェラーリへの対抗心」はあくまで表向きであり、実のところは修理のためにフェラーリから取り寄せたクラッチが自社のトラクターと同じ製造元だったこと、そのクラッチの仕入れ値価格と取り寄せた価格の歴然とした差(フェラーリは10倍近く高い値段をつけていたとの一説あり)がフェルッチオを動かすきっかけになりました。ビジネスの勘が鋭く堅実な実業家であるフェルッチオはそこに目を付け、ならば「自分で完璧なクルマをつくろう」と、1963年5月にアウトモビリ・フェルッチオ・ランボルギーニ社(現在はアウトモビリ・ランボルギーニ社)を設立。その歴史に幕を上げました。

アウトモビリ・ランボルギーニ社(本拠地:イタリア サンタアガタ・ボロニェーゼ)(出典:WIKIMEDIA COMMONS

ブランドとフェルッチオを表す闘牛

1963年10月、トリノ・オートショーにてプロトタイプ「350GTV」を発表。翌年にその市販型として正式に生産を開始した初のスポーツカー「350GT」をはじめ、フェルッチオは次々と伝説のクルマを生み出します。1968年までに「400GT」「ミウラ」「エスパーダ」「イスレロ」を、1971年にはランボルギーニのマスターピースの一つである「カウンタック」が誕生しました。新モデルを発表するたび、パワーや快適さ、デザインなどの改良を重ね、その独創性は人々の予想を遥か超えるものとなり、設立から10年足らずで世界的スーパー・スポーツカーブランドの一つとして地位を確立させました。

フェルッチオ(中央)がモータージャーナリストのジョバンニ・カネストリーニに「350 GTV」について説明する様子(出典元:WIKIMEDIA COMMONS

妥協を許さず進化し続けるランボルギーニの車体に鎮座するかの如く輝くのは、牡牛をモチーフとしたエンブレムです。これはフェルッチオが4月28日生まれの牡牛座だったことに由来しています。農家の長男として生まれ、家業を継ぐことが決まっていたはずのフェルッチオが起業し、実業家として道を進んだのは、牡牛座の典型的な性格といわれる粘り強さや努力家な一面がもしかしたら影響したのかもしれません。

ランボルギーニのエンブレム。クルマは1967年に製造された「ミウラP400」(撮影:& OWNERS)

また、フェルッチオは闘牛試合観戦が趣味だったことでも知られています。ランボルギーニのモデル名には闘牛の名前や牧場の名前が採用されているものが多くあり、闘牛からの命名するスタイルはランボルギーニの伝統の一つでもあります。

1963年の創業からデザインの刷新を続け、2024年4月、26年ぶりに新しいエンブレムが発表されました。パワフルで勇ましく、鍛え上げられた闘牛は、ランボルギーニが生み出すクルマたちのスピード、パワー、しなやかさなどを表現します。

引退後はランボルギーニのようなワイン作りに没頭

これまで順調に進んでいたランボルギーニ社は、世界的金融危機やボリビアのクーデターが絡んだ売買契約のキャンセルなどから経営難に陥り始めます。

フェルッチオはトラクターを製造・販売していたランボルギーニ・トラットーリ社を1971年に売却。その翌年には、ランボルギーニ社の株の51%をスイス人投資家のジョルジュ=アンリ・ロゼッティに売却します。この売却によって、同社の経営権も手放すことになり、1963年の設立から劇的な発展を指導してきたリーダーは、自動車業界から引退となりました。経営側からは離れたものの、フェルッチオはその後も工場で働き続けたそう。そうして経営再建を図るも、1972年に訪れたオイル・ショックには太刀打ちできず、1974年に残りの49%の株も友人へ売却しました。

自動車業界の第一線から退いたフェルッチオは自身のルーツでもある農業に立ち返ります。旅行中に一目惚れで購入した、高級ワインの産地として有名なイタリア・ウンブリア州の土地でワイナリー「テヌータ・ランボルギーニ」を建設し、「ランボルギーニのようなワイン」をつくりたいという思いでワイン作りに情熱を注ぎます。最高品質のブドウを植え、1975年には当時最高のワインメーカーの一人であったジョルジョ・グライの監督の下、「サンゲ・ディ・ミウラ」を生産しました。フェルッチオは晩年ワイン作りに明け暮れながら、1993年、76歳でこの世を去りました。

逝去から29年が経った2022年、これまでの自動車業界に残した輝かしい功績が讃えられ、「自動車殿堂」(Automotive Hall of Fame)にフェルッチオの名が加わりました。1993年に設立された自動車殿堂には、エンツォ・フェラーリ、フェルディナント・ポルシェ、豊田英二、本田宗一郎など名だたる人物たちが名を連ねます。革新的なクルマを生み出してきたフェルッチオにとっては当然な名誉でしょう。

フェルッチオ引退後も「完璧なクルマとはなにか」を追求する姿勢は企業のDNAとして受け継がれ、2023年にランボルギーニ社は創業60周年を迎えました。半世紀以上に渡って数々のドリームカーを生み出しているメーカーは一人の牡牛座の男からはじまっていたのです。


文:AND OWNERS編集部

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